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徳山藩校歴代教授

徳山藩校 鳴鳳館

鳴鳳館歴代教授

初代教授 本城紫巌 / 第二代教授 役藍泉 / 第三代教授 長沼采石

第四代教授 本城太華 / 第五代教授 小川乾山

鳴鳳館について

享保4年(1719)に宗藩は萩に明倫館を創建した。その頃、佐波郡右田村には、既に右田毛利氏の時観園があり、ついで三田尻に越氏塾が始められ、阿武郡須佐には益田氏の育英館が設けられた。徳山の鳴鳳館は七代就馴に治世、天明5年(1785)に至って開設された。萩の明倫館に遅れること66年である。その後2年にして清末毛利氏は育英館を設立し、寛政4年(1792)には長府毛利氏の敬業館ができた。岩国吉川氏はさらに遅れて弘化3年(1846)に養老館を設けたので、四支藩の中では、徳山藩が最も早く藩校を設立したのである。

就馴は英邁闊達、すこぶる下情に通じた。家臣をあわれむこと厚く、奈古屋蔵人を重用して治績を挙げたが、特に、学問を奨励し、本城紫巌、飯田弁之助に命じて、藩祖就隆および三代元次の詩文歌類を編集せしめるなど、早くから意を文教に用いた。その徳望は治世30余年の間に、一人の重犯人をも出さなかったことでも知られる。

鳴鳳館は広豊の時代、延享元年(1744)に設けられた武芸稽古場を増改築したもので、その位置は徳山勢屯の東詰角北向屋敷、すなわち御蔵本の東隣であった。この創設に最も力を尽くしたのは奈古屋蔵人であった。

鳴鳳館の名は亀井南冥が蔵人を通じて、就馴の委嘱を受けて選んだものである。出典は詩経の大雅の巻阿の章によったもの。大雅は詩経の精髄と言われ、周の文王、武王、成王の徳を称えた堂々たる詩ばかりで、とくに巻阿の章は周王の出遊に際して歌われた太平謳歌の詩で、盛世の気象があふれている。

巻阿の章に「鳳凰は鳴く、彼の高き岡に。梧桐は生ず、彼の朝の陽に。菶々萋々(ほうほうせいせい)、雝々偕々(ようようかいかい)と」の詩がある。朝陽は朝日の照らしているところ、菶々萋々は、ともに草木の茂る有様をいう。雝々偕々は鳥の優しい清らかな声で、鳳凰を賢者に比し、梧桐の木を君主によって与えられた地位に比したのである。即ち君主が天下を治めるために賢者を求めると、賢者は自然とそのところに集まるという意であって、君主はよき臣下を得、臣下はよき君主を得て、ともに満足して国政に尽くすということで誠にめでたい詩である。この詩から鳴鳳の字を作ったのは、周防の「周」を中国の周の国に比し、徳山の城山を周の「岐山」に擬し、鳳凰岐山に鳴くということにしたのである。

鳴鳳館の蔵書は、さすがに元次以来の蓄積によるもので経書、諸子百家、史類から字書、小説の類に至るまで備わらないものなしという有様で、大いに誇るに足るものがあった。内部は文武両道の稽古場に分かれ、文学の方を鳴鳳館、武芸の方を閲武堂と称した。従来とかく武芸の修業に偏りがちであった藩士の習俗に新風を注いだものであった。(徳山市史上)

 

徳山藩校 興譲館

興譲館歴代教授

初代教授 福間青海 / 第二代教授 飯田竹塢 / 第三代教授 林芳雲

第四代教授 櫻井魁園 / 第五代教授 本城素堂 / 第六代教授 浅見拙逸

興譲館について

天保年間以後、徳山の藩学は大いに刷新され、やがて徂徠学を捨てて朱子学に転ずるに至ったが、嘉永年間には時勢は大きく変転した。頼山陽の日本外史や日本政記が愛読されるようになり、孟子の王道が我が国体と相容れないことも論ぜられ、周王を称える鳴鳳の字義は、心ある学徒から喜ばれないようになった。福間青海がまずこれに注意し、ついで桜井魁園は神典、国史を説き、神仏混淆の非を唱え、林麓は大いに兵を論じ、外夷に備えようとした。これらの風潮はおのずから館名の改称を促すに至り、嘉永5年(1852)12月1日、ついに鳴鳳の名を廃して興譲館と改めた。

けだし「大学」に

一家仁なれば、一国仁に興り、一家譲なれば、一国義に興り、一人貧戻なれば、一国乱をなす、その機かくの如し、

とあるのをとったのである。

この嘉永年間には教学は大いに信仰せられた。徳山藩教育の中興時代とも称すべく、藩士の子弟は文武諸芸を兼修して怠ることなく、かの徳山七士を初めとして、人材の輩出はこの時を以て最大となすと言われた。

嘉永6年ペリー来航以来、諸藩は不安な政情に影響され、兵学、武術を偏重して文学を軽んずる傾向を生じた。徳山藩は従来の方針に従い、厳しく文武両道の兼修を命じたけれども、やはり時勢には叶わず、文学不振のままに、維新後の新学制を迎えることなった。この時期における興譲館の制度はおおむね次のとおりである。

一、 学科目

国語 漢学 医学 算術 測量 習字 礼式 兵学 射術 馬術 槍術 剣術 砲術 甲冑着用柔術

生徒には必ず文武を兼修せしめ、文学は四書の大義に通ずる者をもって、武芸の免許以上にあてる。もっとも一科を専修することは差支えない。生徒の学習期限は設けず、おおよそ五、六歳で初めて入学する。入学を許可されたものは礼服を着用して、青銅百疋をもって師範家へ回礼する。試験にも一定の方法はなく、毎年一度文武の師範及び生徒を藩主の居館に招集し、学力、技術を試みる。賞品としては、一ヵ年皆勤、三ヵ年皆勤、並びに勉励篤志の者全員に書籍や半紙などを与える。

二、 授業日割

素読科 毎朝六時より八時まで、ただし五、十の日は休業

解疑科 毎月一、四、六、九の日、朝八時より十時まで

討論科 毎月三、八の日、朝十時より正午まで

輪講科 毎月四、九の日、朝八時より正午まで

会読科 毎月二、七の日、

講釈科 毎月四、九の日、朝八時より十時まで

詩文科 随時

三、 教科用書

素読科 孝経 大学 中庸 論語 孟子 詩経 書経 礼記 易経 春秋 史記

解疑科 小学 蒙求 説苑 世説 十八史略 史記の類

討論科 説苑 史記の類

輪講科 孟子 左伝 国語 世説 戦国策

会読科 近思録 大学 中庸 論語 詩経 書経

講釈科 小学 近思録  四書 五経の内

詩文科 四家雋 四先生文範 四大家抄 韓柳文古文矩 徂徠集 七才子絶句解 唐詩選 文体明弁 古今詩刪 明詩選 滄溟集 李空同集 弇州詩文集 白石集 その他随意

四、 職員及び俸禄

維新前

教授一名(番頭格) 助教一名(馬廻格) 訓導三名(時に増減あり)助訓一名(同) 句読師四名 習字引立方一名 同手伝一名 学館目付二名

武芸は各流派の師範一名あて(時に手伝一名あてを加える)

俸禄は教授三人扶持、助教、訓導、師範二人扶持、学館目付、助訓、句読師一人扶持(一人扶持は一ヵ年米四表の割)

五、 生徒数

維新前

寄宿生 大学寮は藩費生十名ないし二十名、自費生両三名

小学寮は自費生十名ないし十二

通学生 大学寮は両三名 小学寮は十名余

学制頒布前

寄宿生 大学寮に県費生二十名

六、 束修謝儀

入学 年始 歳暮 五節句などに青銅十二文包にして二包宛を師家へ持参

七、 蔵書

教書約三十八部 経翼約三十部 和漢歴史書約五十部 諸子約二十二部 字書四部 詩集約五十五部 韻書約六部 詩文雑集約五十九部 和漢雑書約八十部

 

なお、教授以下の俸禄は直接に藩政府から本人へ支給せられるので、学館の経常費には加えない例であった。また藩主は毎月一回、あるいは二回臨校して講義を聴き、聖廟での釈菜は初めは年一回であったが、後には二回執行せられることになった。

慶応3年(1867)12月に幕府は瓦解し、ついで明治2年(1869)6月に諸藩はその土地と人民とを朝廷に奉還した。ここにおいて藩主は改めて藩知事に任命されたが、同4年7月、朝廷はさらに藩を廃し、新たに県を設置した。徳山藩は廃藩に先立つこと一ヶ月、自ら請うて山口藩への合併を許されたが、その九月には興譲館もまた徳山小学と改称し、山口中学の管轄となったのである。(徳山市史上)


公開日:
最終更新日:2014/11/19

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