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矢嶋作郎

 矢嶋作郎(やしま さくろう)
<天保10年(1839)― 明治44年11月7日(1911)享年73歳>

矢嶋作郎天保10年、周南市上御弓丁に徳山藩士伊藤三郎冶亮宣の二男として生まれる。作郎が過ごした幕末は毛利元蕃公の家臣で活躍、本名の伊藤湊として生きた時代である。長州征伐の際、江戸に幽囚されるも、徳山藩の親戚藩、秋元館林藩に保護され、後、解放される。四境戦争にも結草団総監として阿武郡奈古、大井両村防御の為、同村農町民を率い出兵する。
明治になり、毛利元功公の英国留学に従者として随行、その折、矢嶋作郎と改名した。そのころ明治政府は、ドイツのフランクフルトで日本の紙幣を印刷する準備を進めていた。その監督に留学生代表として活躍していた作郎が命じられたのである。ドイツに渡った作郎は、日本最初の紙幣の印刷に携わるかたわら欧州各国を訪ずれ、政治、経済、社会の現状をつぶさに視察。明治7 年、欧州から帰国し大蔵省紙幣助に就任した。現在の紙幣、及び切手製造の礎をなし従六位を叙せられる。
その後、官を辞し、実業家に転身、日本の街に初めて電気の明かりを灯した東京電燈を設立。「日本のエジソン」藤岡市助(後の東芝を創立・岩国出身)を技師長に迎える。作郎は我が国の電気事業の創始者であり、藤岡市助を育て、まさに日本の歴史に残る大事業を興したのである。その他、障害者の支援、英語の普及、草創期の各種事業への参画、各種方面に多額の寄付、また、香川桂園の門下であった作郎は、和歌の会、明月會を設立、中山三屋女や桜井魁園らの歌集を編纂、和歌の世界でも活躍した。港区南麻布 光林寺に眠る。光國院覺心桂城大居士。
作郎掛け軸の自画像自画像掛軸(矢嶋家蔵)

矢嶋作郎伝 館林藩の奮闘 徳山地方郷土史研究会誌35号 (伊藤改姓 栗﨑健)

矢嶋作郎年表

<まるごと周南 2011.2月号 電気事業の父 矢嶋作郎>
矢嶋作郎菩提寺 東京麻布 臨済宗慈眼山光林寺
矢嶋菩提寺

宮島 矢嶋作郎寄進石碑
作郎宮島 縮

中山三屋33回忌 前列中央 矢嶋作郎明月会会長 於善宗寺
中山三屋女33回忌法要
周陽銀行10周年 前列中央矢嶋作郎頭取
syuuyou


公開日:
最終更新日:2024/03/09

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