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国富鳳山

鳳山の名は熊之助、惣左衛門、子礼。鳳山は号である。徳山藩士国冨清八忠亮の長男、母は吉原吉右衛門宜陳の娘。中小姓27石。
徳山藩5代藩主毛利広豊の時代に出る。人物が温厚で言行をいやしくもせず、名利には極めて恬淡であった。壮年の頃、江戸に出て服部南郭の門に入り、従学すること3年、業成って国に帰り、広豊の信任を受けてその指導となり、兼ねて家中の子弟を教授した。講学教授の余暇、剣槍射御の術を試みてその技に達した。また音韻に詳しく、著書に『両韻弁』や『鳳山詩集』がある。宝暦12年(1762)9月19日、56歳を以て没した。門下の本城紫巌は徳山藩藩校「鳴鳳館」の初代教授になったが、紫巌の母は鳳山の妹である。嗣子は嶺南(彦章)である。
鳳山の門には、先の本城紫巌や役藍泉・青木葵園らがいた。葵園は鳳山の死を悲しんで、「西天明月没し、南海夜珠沈む、人は遺編を抱いて哭し、恨は旧感を兼ねて深し」と賦し、藍泉もまた「時移り人おのずから尊し、千秋我が業を思えば、萬巻これ誰の恩ぞ」といっている。紫巌と葵園とはその自宅が狭く、講学に不便なので、明和6年(1769)に武芸の稽古場を借り、四書の講義をした。ちなみにこの稽古場は先に御蔵本の東隣に創設されたものである。
なお、鳳山が初めて儒学を講じたころは一般に朱子学が盛んで、荻生徂徠の唱道した古文辞学、すなわち、いわゆる徂徠学について知る者はまれであった。しかし、岩国では遯庵の子宇都宮圭斎や、朝枝穀斎が京都に学び、そのころようやく流行を見た古文辞学にふれ、その影響は次第に岩国から徳山に及んだ。鳳山もこれに傾注し、世人の好悪や反対を意図せず、苦学力行して古文辞学を祖述した。鳳山は実に徳山藩教学の淵源をなした人というべきである。


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毛利就慶氏のFacebookより。 よく似合って、カッコいいですね‼

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