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信田作太夫

徳山藩士信田十左衛門盛諄の長男として生まれる。名は定之助、平七郎、衛門介、徽胤、号を秋栞。中小姓25石。安政元年(1854)3月筑後柳川藩に遊び、加藤善右衛門について槍術を学んだ。日ならずして塾頭となり、後、福山藩に聘せられて槍術を指南した。文久2年(1862)、遠藤貞一郎と共に勅使姉小路公知を護衛して江戸に下り、翌年の春、京都に帰って周旋方となった。後、選ばれて御親兵となり、禁門の変後帰藩したが、当時、権力をほしいままにしていた俗論派の家老富山源次郎襲撃に加担、8月、遂に捕らえられて獄に繋がれる。慶応元年(1865)正月14日、その兇手に倒れた。享年41歳。
本城清、児玉次郎彦、江村彦之進、浅見安之丞、井上唯一、河田佳蔵とともに徳山殉難七士のひとりである。殉難七士の碑は児玉神社境内にある。

徳山藩改易と徳山殉難七士 徳山藩再興300年記念誌掲載文

信田作太夫縮周南市 大成寺共同墓地 信田家墓所


公開日:
最終更新日:2024/03/11

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