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河田佳蔵

殉難七士のひとり、徳山藩士河田佳蔵(1842-1864)

河田佳蔵は徳山藩士林正愛の第二子で、名は「政佳」、号を「月波」と称した。河田鉄蔵の養子となって河田家を継いだ。性格は温厚で寡黙だったと伝えられる。幼いころから江村忠純、本城清に学び、剣術は浅見栄三郎に指南され秀でていた。栄三郎は実子の安之丞、次郎彦(共に殉難の士)と変わらず可愛がっていたという。

文久2年(1862)には元蕃に従って京都に入り、周旋方を務めた。徳山藩に帰ってからも萩詰めの留守役や両人役補助などの要職を任された。また諸隊のひとつである先鋒隊の元締も兼ねるなど、藩内の信頼も厚かった。

俗論派が台頭すると正義派の中心人物として正義派の復権を目指して活動。元治元年(1864)8月9日、俗論派のリーダー的存在だった家老の富山源次郎の暗殺を企て、ひとり富山の屋敷を訪れる。いざという時のために富山邸の隣家である児玉次郎彦が富山邸の庭に忍んでいたが家僕に見つかり騒ぎとなってしまう。しからばと河田は富山を襲撃、一撃を浴びせるものの、富山は逃走し、暗殺計画は失敗に終わってしまった。富山は河田の伯父にあたることから、対峙できると一人乗り込んだと思われる。

富山の暗殺に失敗したあと、河田は藩内に潜む。その後、百姓に扮して室積港にたどり着き、そこから船で上関の室津へ向かう。室津で庄屋を営む正義派の小方謙吉(第二奇兵隊の参謀としても活躍した後の謙九郎/徳山の櫛ヶ浜の温品家出身で、明治期に活躍したスキーと航空の父・長岡外史の実父でもある)を頼り、長州征伐の情報収集を行った。

このあと、一度徳山藩に戻って情報を伝えるものの、厳しい検問が行われており、上関に船で戻ることができなかった。そのため、当時岩国に滞在していた萩本藩の正義派の重鎮・清水清太郎らを頼ろうと陸路で岩国に向かうものの、岩国藩の役人に拒まれる。やむを得ず、再び徳山藩に戻ろうとしたところ、欽明路の峠の手前で岩国藩の武士の検問に引っ掛かり捕らえられてしまった。

俗論派の手に落ちた河田は浜崎の牢獄に入れられた。しかし、河田は獄中にあってもひるむことなく、毎日詳細な獄中日記を書き続け、また両親らに遺書を残し、元治元年(1864)10月24日、国を憂う辞世の詩を高らかに吟じて処刑された。享年23。

疎狂憂国欲排氛 一片赤心聊報君
剣響忽醒廿余夢 他年誰弁正邪分

子を思ふ心は胸に満つれども
捨てゝ営め君が千年を

河田佳蔵周南市営泉原共同墓地
img-410162151-01周南市立中央図書館蔵
獄中日記1

徳山藩再興三百年記念/徳山殉難七士


公開日:
最終更新日:2024/04/11

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