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遠藤春岱

遠藤春岱 [生没年不明]
諱を正克、後正衡、初め直之丞、通称玄晋、号拙堂。
遠藤家八代目遠藤春岱は徳山藩における近代医学の開祖である。
春岱の実父俊古(遠藤家七代目)は春岱がまだ幼少のころ病死したので、富田の四熊家から中継養子として東作(四熊家十代目)の弟周庵が遠藤家に入り、秀庵と改名した。文化8年(1811)のことであるが、文化11年(1814)には秀庵は再び四熊家に帰り、天民と号した。春岱が遠藤家を継いだのは、さらに数年を経た文政3年(1820)である。
春岱は初め宗藩三田尻の能美洞庵に学び、ついで文政10年(1827)、長崎の蘭方医楢林宗栄に師事した。宗栄は種痘で有名な宗建の兄である。天保2年(1831)に帰国し、医学館医学取立方松岡玄知崇の不在中、医学館世話方に任じられた。(春岱の妻は玄知の娘である。)同年、春岱はさらに駿河国沼津の市岡魯山を訪ね、翌3年(1832)には『詞論産科書』三冊の著者として有名な江戸の青地林宗に入門した。同14年(1843)12月、「和蘭陀医学治療格別練達」の趣をもって蘭医学世話方として、医学館の教授に任命された。嘉永3年(1850)牛痘開始。安政5年(1858)8月、コレラが流行した際には諸士・庶民への施薬用掛として献身的に尽くし名が高まった。
元治元年(1864)禁門の変後、俗論政権により幽閉を命じられたが、慶応元年(1865)藩内は正義派に回復し、幽囚を解かれた。
慶応2年(1866)第二次長州征伐に備えて設けられた野戦病院に、徳山領内在住と思われる医師40名が出張を命ぜられているが、春岱は山下順庵らと病院本営(福田寺)に編成されている。春岱は書をよくし、また和歌をたしなんだ。明治初年没。遺稿に『春岱日記』がある。長男遠藤貞一、二男守一。守一は安政5年(1858)松岡敬の家督を継ぐ。松岡緄。変名久我四郎。奇兵隊、山崎隊に属した。陸軍歩兵少佐。従六位。明治13年7月15日37歳で死去。

周南市営泉原共同墓地 左から千尋、守一、ひとりおいて春岱IMG_3982縮
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公開日:
最終更新日:2024/04/14

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