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第四代藩主 毛利元堯

第四代藩主

徳山毛利家蔵・周南市美術博物館寄託

第四代藩主 毛利元堯 <1702 – 1721>

第三代藩主元次の長男で、元禄15年(1702)8月16日の生れである。幼名を亀松、また亀次郎、正徳5年(1715)12月に百次郎と改める。翌享保元年の春、元服して元国と称したが3月4日に就久と改め、5月また就清と改名した。この年、藩の改易に遭い、弟の三次郎と共に宗藩に預けられ、萩において三か年の日々を送る。同4年に家名の再興を許され、旧領を安堵された。よって直ちに徳山に帰り、ついで東上して将軍吉宗に謁し、良く5年4月23日に名を元堯と改め、12月18日に従五位下に叙し、翌日、日向守に任じた。

徳山の藩政はかくして復旧したが、宗藩では当分の間、家老として井原孫左衛門、毛利八郎左衛門の二人を元堯につけて、在所並びに江戸表の政務にあずからしめた。また、中絶の期間中、宗藩に引き取られていた藩士も、元の如く徳山に復帰することになり、享保4年10月に武家屋敷設定の鋤始めが行われた。領内の農町民は喜んで労力奉仕をなし、屋敷割が出来上がると、それぞれ以前の持ち主に交付して住宅が建てられた。

徳山の城下も一陽来復し、士民はようやくその堵に安んじたのであるが、元堯は江戸参勤中に疱瘡を患い、嗣封3年にして享保6年2月11日に死去した。時に20歳という若さであった。法号を豪徳院殿家山紹運大居士。実子がなかったので弟の広豊がその跡を継いだ。(徳山市史上)


公開日:
最終更新日:2021/02/10

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毛利就慶氏のFacebookより。 よく似合って、カッコいいですね‼

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